| 四阿 |
| 陰鬱な曇り空に、自然、募るは怠惰と憂慮。 息苦しい程の熱気と湿気。妃縁は、知らず、溜め息を零す。物憂げに伏せられた黒曜の瞳を縁取る長い睫が、透ける程も白い頬に優美に陰影を落とした。 東雲女学院の四阿。刻限は黄昏間近。既に生徒は皆下校して仕舞ったに違い無い。一体いつからそうして其処に居るのか、自身ですらも最早覚えては居なかった。 * * * かつて苦しき鸚鵡の血は塗られ 揺籃さびはてたる肋骨の中に囚はれて 孤寂たまゆらの妄念に酔ふ * * * 「・・・縁さん」 背後から不意に掛けられた、幾分躊躇いがちな声。落ち着いたトーンの、囁きにも近いその声音によって、意識は現実へと引き戻される。 水底から引き上げられるのにも似た、ふわりとした浮遊感。――軽い、眩暈。 「矢萩さん・・・。御機嫌よう」 声の主に縁は微かな微笑を向ける。視線を巡らせるその所作に付き従って、癖の無い艶やかな髪がさらりと揺れた。 視線の先に立つ彼女――矢萩彩乃は、ゆっくりと歩み寄って来る。重さを感じさせぬ、静かな歩み。緩やかに波打つ漆黒の髪、それと対比的な、病的な迄に白い膚。影絵めいたその容姿に、唇だけが鮮やかな紅さを際立たせている。 「こんな時間に。こんな処で、一体どうなさったの?」 向けられた問いに、縁は間近に立つ相手に向けて緩く首を振る所作で応える。さらさらと髪が揺れ、襟元からちらりと覗く首元は、さながら白御影の池に浮かび咲き誇る、蒼褪めた睡蓮の花弁の如く。 「只・・・何となく、帰る気にも成れなかったもので。こうして、怠惰な時間を遣り過ごしていたの」 返答に、くすくすと密やかな笑みが返って来る。 「――怠惰は、罪・・・」 ふわり、と。隣で、制服のスカートの襞が揺れる。柔らかな細波にも似たその様子。声の聞こえる位置が、ぐっと間近に成った。 * * * わたしは其處にまたも鵠の化身を夢み 祈りは堕ちて妖しき艶麗さはいとすぐに縊られようとする かかるとき聖らかな孤獨の淵に棲む わが華やかな傷心の魚を愛する * * * 隣に腰を下ろす彩乃の一連の所作を視線で追って、縁は、続く言葉を待つ。微かに震える睫、緩慢な瞬き。 「・・・知って居て?罪悪の色こそ、甘美な美しさを持って人を惹き付ける物で在ると」 間近に、柔らかな響きを帯びる笑みが聞こえる。少女であるが故に赦され得る、いとけなさと残酷さと妖艶さの入り混じる、甘やかな感覚。返答を――。自らの口を、言葉が滑り落ちる。相手に向ける視線は、変わらぬ憂いと寂寥に加え、何処か挑発めいた色合いも含んで。 「決して赦されないと解っていても、抗うことが出来ないのね、貴女は。そしてきっと――私も」 縁の言葉に、彩乃はすぅっと薄く瞳を細めた。愉悦の笑みを含む、その眼差し。瞬間、交わる視線。 ――堕ちるならば、何処迄でも堕ちて行って仕舞いたい。這い上がる事も適わぬ程、溺れ死ぬ迄に甘やかに。 * * * あゝ 快樂はただ幻想の池に潜み行けば いまは譬ふべくもない嘆きの佛陀さへ來りておびゆる * * * ――終―― |
|