支流の先

きっとまた会えると思うから、
今、さよならを言って泣くのは変だと思う。

だから



僕らは子供で、
そのあどけない手で掴めるものはほんの僅かで、
確かなものなどなにひとつないから
時間の過ぎる事だけが惜しい、そんな日がいつも巡ってた。










遊びに誘うのがひどく照れくさくて、
わずかに開いたドアの隙間に影を映すのが精一杯だった。
僕が来た事を顔じゅうで驚いてくれたり、
走り寄った足音がひどく急いでいて賑やかだったり、
分かりやすい事はなにひとつなかったけれど、
僕は君と出掛ける、
空の真ん中に太陽が引っかかった、明るい夏の昼が好きだった。









「今、そこは危ないわ。邪魔しないでね、あっちに行ってなさいな。」

僕の家は、ずっと同じ僕の家なのに、すっかり別の場所のように
なってしまって、僕はひどくつまらなかった。

見なれたものが次々としまいこまれた、
大小とりどりのサイズが散らばったダンボールが木立のように
うっそうと部屋の中を埋め尽くして、ベランダへ続くはずの窓すら
ふさいでしまって光を押さえ込んでしまい、
いつも僕がいたはずの部屋を、淡い影に包んでいた。

うんと背伸びをしたらやっと取っ手に手の届くようになった
棚やタンスに、白っぽい柔らかそうな布が巻き付けられ、
家の中が別の色に染めかえられたように、異質な違和感が佇んでいる。

僕の家は、ずっと同じ僕の家のはずなのに、どれにも触れてはならない
緊張感に取り囲まれて、僕はひどくつまらなかった。


「おい、ドライバーは何処にやった?」

タオルを頭に括り付け、胸板の上に汗の染みをつけた父は、
毛の生えていないくるぶしまで見えるほどにズボンの裾を端折り上げ、
裸足で床を歩き回っているので、ぺたぺたと派手な足音が部屋の中で
右から左へと移動していた。

「そこの小さな箱にまとめておいたでしょう」

衣類を畳んでは、手際良く箱へと収めていく母は、たまに手を休めて、
僕が着ていた事を僕が信じられないような、赤ちゃんの頃の小さな
服を広げては、しばらく眺めていたり、なにかを呟いたりしては、
首尾良く荷物をしまい込めている。

父は、週に5度は夜の帰りが遅くなるようなサラリーマンだった。
家具の位置どころか、角度をほんの少し変えたぐらいで
物の在りかの見当すらつかなくなってしまうほどだったので、
今、ひっくり返したように梱包された家の中で、
なにかひとつ物を探すたび、ぺたぺたと裸足で歩き回るという感じだった。


母は父がつまずくたびにしばらくは相手にせず、
けれども困り果てたように頭をガリガリと掻いているのと見とめると、諦めたように父の大きな体がうろついている傍に寄り、
気後れして恥ずかしそうな父を、まるで僕をあやす時と同じように、
物のありかを教えてやっていた。




僕はといえば、小さな椅子のひとつも満足に持ち上げられないほどの
取るに足らない子供だったけれど、
やはり子供だから、このちょっとした目新しい出来事に興奮して、
母の真似事じみた手伝いを最初はすすんで行っていたが、
やがて自分のやっている事が大して重要ではない事に合点がいくと
途端に飽きて、物がみるみるうちに箱に収められてなくなっていく
部屋にいるのがつまらなくて、
学校から帰ってくるなり鞄を玄関で放りだし、
すぐに遊びに出かけてしまうようになった。


ちょうど隣に住んでいる従兄弟を誘い出しては、
人気のない昼間の住宅街をすり抜け、竹や橡、樺の木がからみあうように茂る小さな林へ行くのがその年の夏休みの、ほとんどを締めていた。

その木の匂いが取り囲む林の先には、なだらかな土手が続いていて、
コンクリートでの舗装が済まされたところと、
まだ岩肌や土が剥き出しになったところのある、
大きな流れに組み込まれる前の、街の丁度中央を突きぬけるような
ひとつの川から分岐した、小さな支流の川が流れ込んでいたので、
僕らでも立ち入れるほどの高さに伸びた藪を分け入ったところから、
川の中へと素足を浸す事が出来た。

住宅地からは郊外にある浅瀬の水は光を跳ね返すほどに透き通り、
ごろごろと不安定な石の転がる川底を注意深く
歩くと、やや流れの急になるところに、たまに魚の影が見えた。

流れに逆らうように尾びれを左右にはためかせている様子や、
白っぽい川の中で、ぬっと黒い影が作るぼってりとした魚の輪郭を
眺めているのが僕は大好きだったから、暑い盛りになる時刻に、
家から出ることを不精がる従兄弟の手を引っ張り、
僕は毎日のようにこの小さな支流に足を浸して、水音を立てていた。




「育ちゃん。」


その日も、僕はその川に従兄弟と連れ立って来るつもりだった。

朝方から社宅の敷地内に入り込んで横付けされた、
引越し用の大きな車は、今日の午後には全ての荷物を積み込み終えて、
僕をこの街から離れさせていく。

父は、雨を被ったように汗みずくになり、
大きな家具を担いでは社宅の狭い階段の昇り降りを繰り返している。
母は、同じ社宅の棟に住んでいる近所に挨拶を配ってまわったり、
また手伝いに来てくれた人達へとねぎらいと冷茶を渡したりと、
こまねずみのように動き回っていた。

僕はいよいよこの街を離れる事が間近に迫ってきたのに、
不意に動揺してしまって、
自分の荷物を適当に縛り終えたら、「すぐに戻る」とだけ言い残し、
逃げるように引越しの荷物が次々と運び出されて、
何もかもをなくしていく家から外へと飛び出してしまった。
うだるように暑い夏日を浴びて走りながら、父が荷物を降ろした音や、
母の叫ぶ声が背中の後ろでどんどん遠くなるのを感じていた。





住宅街も、折れたひとつの角も、渡っていく橋も、抜けていく林も、
全てが今日を境に見れなくなってしまう事に、僕は動転していた。

いつもは必ず立ち寄って誘って行く従兄弟の家は、
昨日の夜から朝にかけて、僕の家で引越しの手伝いをするために
家族総出で僕の家にやって来ていた。

梱包がすっかり済んでダンボールに取り囲まれた部屋の中で、
皆はささやかに父や母と今までの事や、
これからの事を笑いながら話し合ったが、
僕は一言も口を聞かず押し黙っていて、
また従兄弟は僕の顔を見もせずに、
先に隣の自分の家へ戻ってしまった事に、
僕は少なからず腹を立てていた。



だから駆け出した時、従兄弟を誘って行かなかった事を
僕の頭をちらとかすめたけれど、
僕はただ夢中で走っている勢いを途中で休める事も出来ないまま、
いつもと同じように水音の聞こえてくる川への筋道を辿りもせず、
藪を突っ切り、竹林を突き抜け、道の跡がないところを進むという
無茶苦茶な走り方で駆け込んできた。


青々とした葉が折り重なって光の色を淡い緑に変え、斑に明るみを零す林を抜けると、日差しが注ぐ日向の明るさが頭の上に照り付けてきた。

僕はとうとう息を上げてしまって、体じゅうから汗がこぼれそうで、
その場に立ち止まり、荒々しい呼吸を繰り返していた。



額に貼りついた髪を指でぬぐって、顔を上げた先に、
不思議そうにも、笑ってもいないようにも見える従兄弟が
川を背に、立っていたのが見えた。








「育ちゃん。」

僕は、確かめた従兄弟の顔に向かって、もう一度声を掛けた。

僕らが夏の間じゅう、ずっと遊んでいた川のほとりで、
従兄弟は何かを見るふうでもなく、僕の目の前にいて、
ただ黙って立ち続けていた。










「俺、今日、引っ越すんだ。」
「知ってる。」
「うん。」
「……。」








ひとつひとつの言葉の意味が持つ重さを感じとって、
ふたつの声が途切れるたびに川を流れ続ける水音の響きが辺りを覆い、
ひっきりなしに鳴き続ける蝉はじわじわと声音を変えて、
その音のすべてが川の中へと吸い込まれていく。

僕は、相変わらずふだん通りにこの状況を受け止めている
従兄弟に、昨日からの腹立ちが蒸し返して、
意地の悪い気持ちがわきあがった。












「もう会えないよ。」

僕は、なるべく冷たい聞こえ方をするように、わざと意識をして、
顎の裏からとめどなく滲んでくる汗を手の甲で拭い取りながら、
きつく目許に力を込めて、従兄弟の眉間のあたりを睨み付けた。






















「さよならは言わない。」



僕の言葉を聞いていなかったように、顔色も表情すらも変わらず、
従兄弟はうだるように暑い日差しの中にあって、乾いた声を漏らした。

僕が睨み付けた瞬間に、困ったように顔の角度がほんの少しだけ、
下向きに変わったのが僕にも分かったけれど、聞いた言葉の内容に
僕の怒りは押さえ付けられないほどに膨らんでしまって、
その怒りに追いつくようにすっかり悲しくなってしまって、
滲みそうになる目許を、従兄弟を黙って睨み付ける事で堪えていた。

梢でしばらく休んでいた蝉が、また大きく羽音を震わせて
狂ったように鳴き出してから、
従兄弟は僕の顔から目を背けないで、はっきりと聞き取れる声で、
不愉快な顔を作り続ける僕へと言葉を重ねた。
















「きっとまた会えると思うから。
今、さよならを言って泣くのは変だと思う。

だから」













川面の水色や、林の緑色がぼやけたように、滲んで見えた。

汗の垂れた肌に、ひどく熱っぽい涙が粘りを帯びて、
両側から重たく伝い落ちていったのが、僕には分かった。


















僕らは子供で、
そのあどけない手で掴めるものはほんの僅かで、
確かなものなどなにひとつないから



だから、きっとまた会えるだなんて
ひどく曖昧な事をでも
信じきれる事が出来る












そんな気がする。
また、いつかきっと




 >>>RI.   -- 06/04/27-23:11..No.[159]  
    従兄弟との話。
従兄弟PLには無断ですが
いつか書きたいと思っていたわけで。ご容赦。


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