ちょっとした賭け





その家は裕福だった。

夫婦お互いが仕事を持ち、忙しく暮らす中、金で解決出来る部分の多くはそれでやり過ごした。

夫に転機が来る。
アメリカの企業から引き抜きのオファーが入ったのだ。

二人は考える。
殆どが一緒に過ごす事の無い今の暮らしを維持していくか、それともお互いが仕事にかけてやっていくか。
それは妻と夫の間で話し合われた。
夫婦の話であって、今までの生活がそうであったように、子供はあまり関係無い事に思われた。
決着がついたら話せばいい。
二人は何の疑問もなくそう思っていた。



上山さんは、高松智樹が幼稚園の頃から居る家政婦さんだ。
ゴールデンレトリバーを傍らに、ミルクバーミニを食べながら、食卓からリビングの方のテレビを遠目に眺めている智樹を、台所仕事をしながら何度かちらちら見て、

「智樹さんは、どちらになさるんですか?」
少し言い辛そうに声をかけた。

自分の娘がひと段落ついて働きに出た先の息子は幼稚園だった。
今はもう高校生だ。
両親の離婚を目の前に、アメリカに行くか、日本に残るか、さぞ色々心を痛めてるに違いない。

「…えー?」

テレビに気をとられたのか、ちょっとした後で生返事に近い声が返ってくる。
日本に残ってくれたら、顔も見られるんだけど。
飛行機が恐くて海外に行ったことの無い上山にとって、アメリカはとてつもなく遠い所だった。

「どっちについていかれるんですか?」

また、少しの間があった。
片手で頬杖をついて、テレビを眺めたまま、口元からアイスの棒を離す智樹が、シンクを磨く手を止めて顔をあげると目に入った。

「んー…、……、……どっちがいーと思う?」

あまり抑揚の無い声で尋ねられて、上山は困り、またシンクを磨き出しながら、正直に言う事にした。

「だんな様はアメリカに行かれるようですから、ぼっちゃまは、奥様とお暮らしになってはどうでしょう」
「……わかれたらー?」
「ええ。…ええ、アメリカは遠すぎますよ」

今の自分の勤務時間は朝10時から夕方の5時。
智樹が成長するに従って、顔を合わせる時間も減ったけれど。
毎日食事を作って育ててきた、やや自分の子供のように思っている部分がある、と上山も自分で自分の感情を考えて、思う。

夕食も、作り置きの朝食も目の前で作ってやれないから、冷えていてもなるべく栄養があるものを。
昼は学食や、買い食いのようだから。
料理研究家の母を持ちながら、家政婦の料理と買い食いの智樹を少し不憫に思う。
温かいものを食べたいでしょう、と言ったら、猫舌だからとなんてことなさそうに智樹が答えたのが妙に記憶に残る。
肉を食べたがらないから背が伸びないのかと、あれこれ工夫したメニューもある。

「んー…、かんがえちゅー…」

智樹が呟くように言ってアイスを口に戻す。
傍らでアイスのおこぼれを待つように、大きい犬。
これにゴールデンレトリバーと言う名前があると言うのをこの家で知った。
一人で夜を過ごす事が多い智樹には、こういう存在感ある生き物はいい。

自分も今朝奥様から聞いて驚いたばかりだ。
智樹も色々まだまとまっていないのだろう。
上山はそれ以上尋ねるのはやめて、また仕事に戻ることにし、

「そうですか。私はね、智樹さんが好きですよ」

自分の子供に言うように言うと、智樹がその時だけちゃんと視線を寄越し、少し笑った。





犬の顔をひっぱったり、首回りの飾り毛を揉んだりしながら、大きいベッドの上で智樹が話しかける。

「知らんかったねー、まろん」
「アメリカだってー。どうしよ、俺英語の成績よくねーよ」

それから顔をくっつけるようにして笑う。

「知らんかったなー…。…俺はいつ聞けるのかなー」
「じゃ、さいしょにおしえたほーにしようか」

犬は何にもわからないと言うように首をかしげ、顔を舐める。
智樹も楽しそうに笑った。





金銭的な問題や、今後のこと、一通りの相談がついて、子供の事に差し掛かった。
親として、お互い立てない程経済状態が無いわけでもない。
どちらでも良かった。
どっちに子供が来ると言ってもどうとでもなる。
今までどうとでもなってきたでは無いか。

「もう15だ。智樹の希望を聞こう」
「ええ。私、どっちでもいいわ。智樹の将来にアメリカも悪くないと思うし、こっちならこっちで上山さんも居るし」

二人は頷いて、離婚問題の仕上げに入った。





「智樹。父さん達はね、離婚する事になったんだよ」

柔らかい感じの息子の顔を眺めながら、切り出す。
そういえば息子の前に座って、じっくり話をするのも久しぶりだ。
この子は若い頃の妻に良く似ている。
優しげな面差し。
美人料理研究家として売れ出した頃の最初の本の表紙を思い出した。
アイドルのように彼女が笑ってたっけ。

「……それで、私は仕事でね。アメリカに行こうと思ってる。お前は、お母さんと日本に残っても、アメリカに着いて来てもいいよ。手続きなんかはしてやろう。どっちがいいかい」

いくつになっても甘ったるい顔立ちに見え、つい、小さい子に言うような口調が混じる。

「…ふうん。……ねえ、お父さん」
「ああ」
「お父さん、俺のさー、好きな食べモン、知ってる?」

まったく明後日の質問が帰ってきて面食らう。
まるで、それが凄く重要な事のように尋ねるので、叱りかけた言葉を答えに変えた。

「肉料理だろう?お母さんの本によく書いてあるからそれくらい知ってるよ」

一度、智樹は瞬きをし、ゆっくり顔を下げた。
次に顔を上げたときはむしろ、愉快そうな表情になっていて、怪訝そうに父親が彼を見る。

「俺はねー、じゃあアメリカに行くよ」
「どうして、アメリカに?」
「どっちもどっちだけどー、その話をしに来たのがお父さんだったから」

じゃあ、この話をしに来たのが妻だったら、日本に残ったのか。
息子のいい加減さに呆れる。

「もう少し考えなさい」
どっちもどっち、などと口にする息子にも少しイライラする。
息子の将来を思って、選択肢を設け、気遣う親の気持ちなぞまだ到底わからないのかもしれない。

「んーん、いーの」

笑って顔を振り、

「そんだけ?じゃ、俺マロンの散歩行って来るねー」
「待ちなさい、智樹。あっちの学校は9月からだから、そこから転入手続きをつける。9月だよ」

今は6月下旬。夏休みを考えると、今の学校の友達と居られるのも後少しだろう。
念押しするように伝える。

「うん」

あっさり目の前から立ち上がり、歩き出す。
若い子はこうだろうか。
溜息が漏れる。
まあ、どちらでもいい。私も父親として、息子がアメリカについてくると言うなら、それを厭う訳じゃない。今まで通り、あちらで家政婦を雇って、学校に入れ、安全な住居を提供し、不自由はさせない自信がある。経済力のある家に生まれた幸せな子供。

諦めて、席を立つ。
妻に電話を。
息子は自分と渡米だ。
会社の退職手続きを済ませなくては。
ヘッドハンティングで職場が変わる自分はおそらく、息つく間も無いほどしばらく忙しいだろう。




遠くの部屋で、犬を呼ぶ息子の穏やかな声が聞こえた。





 >>>ゆり   -- 04/09/01-18:23..No.[30]  
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