朝の日差しで目が覚めた。 真冬の暖かさが布団を通して肌に伝えてきた。窓を見渡したら、亜熱帯の空が曇りひとつもなく、染めるように青くなり、高まっている――あ〜、すでに二○○五年一月一日だった。 不意に、夢か、と思い出し、詳しくは覚えられないけれども、確かに愉しかった夢がしただけは、確信した。元旦の夜、つまり夕べのことだった。 大学時代の班長さんであった梅君がその夢に登場し、教室か学生寮かのどこかで、部活動か勉強会かの何かのことについて、彼が言った一言が同級生の皆を笑わせたのようだった。しかしながら、一体どんなことについてのだろうか、また彼がどのような台詞をしたのだろうか、目覚めた状態ではそれを正確に思い出すのは到底無理である、と自悟した――とにかく皆のの笑い声や笑い顔の中で、二○○五年の日差しが僕を夢から覚めてしまったから。 夢はやはり夢に過ぎない。 懐かしい大学時代のことを通して、僕の自発的か他発的な心理活動の微妙さと見てもよいだろう。生涯を通じても忘れられないことは、やはり気性の合った友人、人間関係がそれほど複雑ではなかった学生の部活動、または何よりもその子供のような無邪気であろう。 そのすべてが去っていてしまった今のところに、その代わりのように、大人としての辛さ、平社員としての辛抱、男一匹としてのつまらなさなどが、まさかインド洋の津波のように、ぐっと胸まで迫ってきたような感じ。 …… 一年間前の今日、僕は連休を旅に利用し、久しぶりに出身大学まで戻っていたのだ。 その時まだ三年生であった、ずっと愛していたその彼女と一緒に久しぶりにショッピングしたり、食事したり、散歩したり、図書館で本を読んだりしたののだろう。 にもかかわらず、彼女の心がつい僕のそばまで戻ってこないのだった。寂しい旅の結局、それを確認できた――というよりも、確認されたのだ。その時から今までは、何回も何回も彼女と同じくデート、ショッピング、食事を繰り返したが、残念なのに現実の中ではなく、夢のみでのことだった。 …… 人は、別れるために会う、といつも言われていたんだろう。 しかし、どんな時、どこで、そして誰とどのように会うのか、そのすべてを僕らが我がままに決まれるわけではないのが、誰でも知っているだろう。一層悲しいことで、別れるや別れられる場合もほぼ同じのようではないのだろうか。人生では、どうしても自らうまくコントロールできないケースが割りと多かったに違いないではないだろうか。 僕らは、こういった厳しい世の中で、生まれ、成長、熟れ、老い、亡くなったまでどんどん辿って行くしかできないのだろう――が、幸いなことに、懐かしい年への夢っていうものがあった。静かな夜中で、人生の僅かな愉しかった思い出をありありとさせ、暫く世の冷たさを忘れさせ、僕らの心を優しく慰めてくれたのだ。 中でも、すでに別れたか別れられた人々のことを、そのまま目の前にはっきりと映してくれたことは、それは御神様に非常にありがたいなことではないだろうか。 さあ、今晩も早く休め、また約束した懐かしい年と再会するように… Victor 2005-01-02 @ G.Z. |
>>>Victor166 -- 05/01/03-02:27..No.[61] | |||