卒業

自分が育ったこの家が好きだった。
商店街の中にある自分の家はいつも喧騒の只中にあった。

1階の階段側の黒褐色の柱には、小さい頃背の高さを計った疵が幾つもある。
姉はそれを見ると笑う。

「健ちゃんの身長測ってたなんて、ばっかみたいね」

自分の膝下程度の高さに何本も付いた線を見て、自分でも可笑しく思う。
自分はその何倍も背が高くなった。通う高校の中でも群を抜く程。

父は朝とも言えぬまだ陽明けぬ早朝、仕入れに小さいトラックを走らせて行き、帰ってくると荷台に詰まれた野菜をどんどんと下ろしていく。
子供の健一には重いその野菜がどっさりと入った箱を、次々と下ろす父は憧れだった。

育ってくれば、自分の家はどうと言う事も無い八百屋で、父は自分が高校になる頃には、腰が痛いと言っては近所の整骨に通うようになる。
自分にとって、大きかったその家は、大きくなるにつれて、古びた小さな物に見えるようになった。

父は学歴が低く、それが酷くコンプレックスな様子で、酒を飲むといつも
「大学なんていらねえ」
が口癖で自分を膝に乗せていた頃から、大学進学を考える歳になるまでそれは変わらなかった。


進路相談に、母親と並んで椅子に座り、
「どうだ、溝口は。受験だったら推薦で……」
教師が切り出した所で
「俺は、進学する気がありません」
と言うと、教師ではなく、母親が隣で飛び上がった。

その夜、父は初めて、酔っても大学が要らない、とは言わなかった。
翌朝、荷台から野菜を下ろすのを手伝っていると、父親がポツリと尋ねた。

「……なんでぇ、健は大学に行かない」

跡を継がせてくれ、と、漸く頭を下げる機会が訪れた。
小さく呟いた父親が、それでも自分の中で変わらず、尊敬の対象であると言える瞬間。
自分も姉もこの家で大きくなった。
父が、今まで守り抜いた城だった。

自分の中でそれを継ぐのは当たり前の事だと思った。



ひとつ、夢があった。
ラグビーがしてみたい。
それは、そういう感情とは別の夢だった。

ラグビー部の無い有海に入学した時に、一度諦めた夢だった。
3年の夏に後輩と話をしていたら、ひょんな事でラグビー部を作って見ませんかと言う話になった。
それは、人揃えの下手な溝口には考えつかず、表現しきれない程胸躍る提案だった。
実際は人数が足らずラグビーの真似事のような練習をして過ごした。

が、それは、溝口にとって忘れられない数ヶ月になった。





貯金を下ろして、親に内緒で1校だけ大学を受け、その合否通知が届いた。


『武蔵大学 合格』


中学の時、叔父に初めて連れて行ってもらった大学ラグビーの試合の勝利校だった。
2部リーグの、トップにも最近ではあがったことのないラグビー部「名門校」。
自分にとって、最高の大学からの合格通知。

それで、顔をあげてやっていけると思った。
素晴らしい高校3年間であった。




 >>>ゆり   -- 05/03/14-23:12..No.[96]  
   


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