「てんじょー、てんじょー」 春、新学期、出席番号順に座席を決められると、自分が必ずと言って良いほどやらされるのが、ノート配りだ。 いげのき、の「い」の字をその時ばかりは恨む。 廊下側最前列の自分に、教室にひょいと顔を出した教師は、どさっとノートを机の上に置き捨て、「頼む」と言い置いて消えていく。 名前と顔が一致していない時期のノート配りは拷問に近い。 呼ぶとすぐ隣で「あ、それ俺だって…」とノートをひったくられて気まずい思いをしたり、名前が読めずにへどもどしたり。 中学に入学したての今も「天井」が現れず、何度も名前を呼ぶ羽目に陥っていた。 こうやってる間にも自分の貴重な休み時間が目減りして行く。 「……てんじょー。いい加減にしろよ。てんじょー…、ゆか」 やや大きい声で下の名前を読み上げると、後ろで会話していた男子が顔を上げて、天井を指差し、床を見て、どっと笑った。タイミングよろしく廊下から入って来た女子が眦を吊り上げて自分に近寄ってきて、ノートをひったくる。 ノートの表紙には、小さい丸文字で「天井 友華」と書かれていた。 やや長い髪の、名前を笑われて自分を睨んでいる「天井」が、入学式の日、いのいちに可愛いと思った子であったのが最大の不覚で、その日は家に帰って溜息に沈み、母親は、すわいじめが始まったのかと気にして、励ましにハンバーグに景気良くアメリカ国旗を立て、更に悩める少年を沈ませた。 その日から、いつか天井に「友華って可愛い名前じゃん」と言おうと決意し、タイミングを見計らい何度もすれ違い様、咳払いをしたものだった。 つん、と顔を背けるようにして通り過ぎる彼女は、神母木が立ち止まるのも気づかず、気づこうともしなかったので、チャンスらしいチャンスは訪れず、代わり、タイミングを見計らい、彼女の様子を気にする神母木ばかりが、徐々に彼女に詳しくなった。 「あー、やっぱキムタクかっこいー。大人だよねー」 アンアンの人気投票を女子が囲んで、様々にランクインしたタレントを『批評』する。 天井が笑って 「私、髪が長い頃のキムタク、ビデオで見た。優しげであれ好きなんだぁー」 男子として極普通の長さの黒髪を神母木が片手で掻き混ぜ、洗面台の前、横を向いたり斜めを見た後で、切らなくなったのは、この日からだった。 言いあぐねて、1年が過ぎ、クラス替えになると、2年も3年も天井とは同じにならず、偶に廊下で見かけても今更過ぎて、逆に言い出し辛くなり、友達と笑いながら通り過ぎる天井を振り返るのだけが、名残として残った。 卒業式、卒業証書の入った筒を片手に、桜の下に立つ。 入学式の時、緊張した面立ちで少し前を急ぎ足に通り過ぎた真新しい制服の少女が、正門横の八重桜を見上げて、水ぬるむように笑ったのを思い出す。 「…友華って、可愛いじゃん」 滑稽なほど、頭の中でシュミレーションした言葉を、口に出してみる。 やっぱりそれは、間違いが無かったなと、筒を肩に当てて、顔を傾け。 髪型だけが、なんちゃってキムタクに仕上がった、彼の淡い片思いは終わりを告げたのだった。 |
>>>ゆり -- 05/04/29-06:15..No.[111] | |||