「あの家の奥さんが引っ越してから、奥の薔薇は綺麗なんだが、どうしても手前の景観が冴えん…」 現像した写真を眺めてぼやくと、妻が横から覗きこみ、 「でも不思議よねぇ。どんどん育っていくのはいいとして、薔薇だけは荒れないんだから」 垣根の外から撮影する為、手持ちのズームで寄っても雑草やら落とさずに伸び放題になった枝やらがかかって、どうも決まった写真が撮れないが、まあ自分のテリトリーでも無いそこの庭にこれ以上を求めてもなんだと、写真屋がおまけで寄こしたアルバムに挟みこんでいく。 植物や、風景写真を撮るのが趣味だ。 富士も撮りにこの愚妻と旅行したし、箱根も、小田原も、芦ノ湖も、京都も、非常に性に合わない乗り物ではあるが、飛行機にも我慢して乗り、北海道にも渡った。 沖縄はまだ行ってはいないが、暑そうなので行かなくても良い。 自分の頭の中の沖縄はハワイと同じ風景で、日本的情緒も減ったくれも無かった。 デジタルカメラが全盛になってきて、覗きに行くカメラ屋が中古店に変わったが、1回こっきりしかチャンスが無いシャッターを下ろし、現像しては出来栄えに喜んだり嘆いたりする昔ながらのカメラが自分は好きだ。 いや、これしか無いとすら思う。 なんだあのデジカメとやらは。 馴染みの店員が少しためらいながらデジタル一眼レフを自分に薦めた日の衝撃が忘れられない。 自分の居場所まで取り上げられた気がして妻に盛大に愚痴ったものだった。 年金生活をそんな具合に送っていたら、妻が思いもかけない病で倒れた。 癌だと言う。 自分は非常にうろたえて、説明をする医師が何を言ってるのかさえ後で考えると思いだせないのだが、隣で妻はふんふんとまるで自分の事じゃないかのように頷いていた。 「悪いわねぇ、ご家族一緒でって先生がおっしゃったから、しょう事無しに来て貰ったけど、お父さんこういうの苦手だもんねぇ」 慌ただしく入院や検査が決まり、妻は家に居た時と変わらない様子で、居場所が病室のベッドの上になった。 「由美子もわざわざ来るって言うのよ。来て貰っても病院じゃしてもらう事無いしね。あの子まだ子供、学校通ってんだから、ずっとこっちってわけにもいかないし。お父さんには迷惑かけちゃうわね。ご飯大丈夫?」 「そんなことはどうでもいい」 大変な病気なのだから優しく声をかけなければ、と思うのだが、妻の口調はいつもと変わらず呑気だし、どうでもいいようなことばっかり言い募るものだからつい、返事がそんな具合になる。 病室に通い、何十回目かの「そんなことはどうでもいい」を言った頃、妻の検査結果が出た。 あれこれするとなると大変で、しかもそれによっての1年ごとの生存率はパーセンテージで示され、それを良い数字と思うか、駄目な数字と捉えるかはそちら様の自由です、と言う。 何もしなければ、今こうしてにこにこ喋っている妻は、今年中にどうもこの世からいなくなるらしい。 毎日毎日落ち着かず、カメラに触ることも無くなった。 面会時間に病室に行き、腰を下ろす。妻の横で居づらい病室で特にできることも無いまま、面会時間が終わるまでそうやって過ごし、家に帰ってはげっそり疲れた気持ちを風呂でどうにか流そうとする日々が続いた後、妻がふっと、 「私、自分は今行かれないからあれなんだけどね、お父さん。そろそろ山のお花が綺麗な頃じゃないかしら」 翌日、病室へ行くのはやめて、近隣の山草を見るのに向いた低山を歩き回った。 久しぶりにカメラを持ち、フデリンドウや、キンラン、ギンランを撮った。 急いで戻り夕方現像に出し、翌朝受け取って面会時間足早に写真を届けると、まるで外の空気を吸ったかのような顔で妻が写真を繰る。 その日から、妻が毎年楽しみにしていた物を思い出して撮影に出かけるようになった。 もうすぐ白い薔薇が咲く、と言う頃、妻の容態が目に見えて悪くなる。 もう娘は子供の学校がなぞ一切言わず、こちらの家に泊りこみ病院を往復するようになっていた。 最初の頃、娘は病室にも行かずカメラを片手で出掛ける自分を詰るような顔つきで見送ったが、昨日夕飯時に、 「お母さん、あの薔薇の話してたわよ。不思議だ不思議だって」 娘にまるで撮って来い、と言われた気がしたが、その前にカメラ屋へ顔を出した。 かねてから考えていた望遠レンズを買う為に。 三脚を肩にかけて、ほんの数分の空き家に向かう。 まるで新聞記者が女優の出待ちをするような加減だなと三脚を立てながら一人じんわりと笑った。 思った通りの白薔薇が撮れた年、妻が亡くなった。 今年は住人がおり、撮影の許可を取るのに一応挨拶にインターフォンを押した。 出てきた青年は快く撮影を許してくれ、どうぞ庭に入ってもと言ったのだが、昨年、妻に見せた同じアングルでなんとなく撮ることにした。 でなければ折角買った望遠が泣くに違い無いと言う、ほんのささやかな理由に過ぎぬ。 |
>>>ゆり -- 12/05/24-14:16..No.[243] | |||