「いやあー、周り何っもないんですわ」 そう言いながら60過ぎの不動産屋が物件の鍵をカギ穴に差し込む。 確かに来る時に歩き回った限り、有名チェーンのドラッグストアを一軒見かけたきりだ。 「若い人にはどうかねぇ、若い人はねぇ…」 目の前の古い平屋の一軒家は人の住んでいない気配に包まれていた。 「よっ…」 すぐに戸が開くと思ってきょろきょろしていたが、妙に時間がかかっているのに気がついて、不動産屋の手元に注目する。鍵を開けるのに、そもそも掛け声が出る事が不思議だ。 「…これがね…、ちょっとコツがいるんですわ」 靴先で横開きの戸の下の方を押しこんで、左手が戸を押さえつけ、更に前後にがちゃがちゃゆすりながらようやく鍵が開く。 横に開くのはスムーズかと思えば、途中で一度ひっかかり、それ以上は不動産屋は開こうとはせずに隙間から家屋に入って行った。 開けてみようとガタガタ言わせ、少し上に持ち上げてやるようにするとまた戸が横に滑り出した。 「まあ、ね。大家も手をかける気が無いんで、逆に中弄りたいなら好きにしていいって事でしたわ」 そうですか、と応え、玄関から中を見る。 電気が来ていないから、と自然光の中薄暗い廊下に、左手の部屋に右手の台所。 廊下をはさんで台所があるのが実に古い。 広い間口の玄関の割には小ぶりの家だ。 不動産屋が紙袋からスリッパを並べ、中へあがる。 「これは安いけどね。駅まで遠いしねぇ、家族もんでも内見に来ると奥さんの方が良い顔せんので…」 なかなか決まらんのです、と不動産屋が苦笑いを見せる。 「お客さんの言う金額なら、もう少し若い人にいい物件もうちにあるけどなあ」 軋む床がなんとなく懐かしい。 あそこまでは軋まないけど、と高校の旧校舎を思い出して床を見おろし、少し笑う。 駅から遠いのもいい。人が来るのに躊躇が出るような億劫な距離を探してる、とは説明できないので、自分の仕事を伝えた。 「ああ!…それなら車族だね。国道から行きやすいからねぇ。通勤し易いはし易いかね」 この不人気な物件を、何故か見たがって無駄足を踏まされている不動産屋が俄然商売意欲を取り戻したのがわかった。 部屋の奥にもう一部屋、小さい部屋がある。入口から身を乗り出すように戸に手をかけて覗く。 ここを寝室にしよう。 振り返って家具のあった跡が白く残る焼けた壁を見、 あそこは一面、書棚で。 一軒家しか住んだことがないので、マンションはいくら見せられてもピンとこなかった。 ワンルームだと寮生活と変わりない気がして決めかねた。 「幸いねぇ、給湯は5年前付け替えたばかりだからまだいけるよ」 不動産屋の台詞に、思わず笑って頷き、目元にかかった黒髪を掻き揚げる。 「売り」が5年前交換の給湯とは。 「じゃあ、お願いします」 ほんとかね!と言うような目の瞠り具合を見せて、不動産屋が数回頷いた。 ……住み始めた日に風呂に入ってる途中でブレーカーが落ち、やっと見つけたブレーカーはヒューズを交換するタイプだとわかった時だけ、少し築年数をあげた物件にすべきだったと思いながら早寝を決め込んだが、それ以降はそれなりに暮らせている。 |
>>>ゆり -- 12/02/18-16:50..No.[236] | |||